2012年2月アーカイブ

 本稿は前回の「最終講義」(2012年2月16日付け)のつづきである。
 ウィキペディア(フリー百科事典)には「彼女(ヴァージニア・ウルフ)の作家としての出発は、1900年にタイムズ・リテラリー・サプルメント(TLS=タイムズ文芸付録)に書いたブロンテ一家の故郷ハワースについての記事」とあり、この記述を私は草稿に引用、最終講義をされた英文学科の窪田憲子教授に誤解等がないか点検をお願いし、前回のブログ「最終講義」でミスを免れることができた。
2月12日つけの窪田さんのメールを、ご本人の了承を得て抄録する。
 
ブロンテ一家の故郷ハワースについてウルフの記事を掲載したのは、TLSではなく、『ガーディアン』紙です。また、年も1900年ではなく、1904年です。ウルフがこの年の12月にハワースを訪れ、その印象を『ガーディアン』紙に送ったところ、12月21日の同紙に掲載されたのでした。ちなみにこの年は、父親が亡くなった年でもあり、高名な父親が存命中は、ウルフは対外的に執筆活動ができにくかったことの例としてとらえることもできます。
TLSの発刊は1902年で、1900年にはTLS自体がまだ存在していませんでした。ウルフが初めてTLSに寄稿したのは、1905年ですので、ウルフは、TLSのかなり初期の頃から寄稿していた書評者であったと言えます。
実は、最終講義で、時間があったらぜひお話ししたかったことの一つに、昨年図書館で採用してくださった、TLSのデータオンラインのことがありました。昔は、紐で結んだ古いTLSを引っ張り出しては、紐をほどき、埃を払いのけながら、手が真っ黒になりながらも記事を捜したのですが、このオンラインデータベースは貴重な資料をクリック一つで見ることができます。
 
TLSのデータオンラインとは、パソコン等で外からアクセス可能なTLSの索引等の電子情報(有料)である。データオンラインには、当然ながら、緻密で地道なデータ作り(この場合には索引作り)が不可欠の前提である。
 イギリスには古くからこの伝統がある。書籍のみならず、Encyclopedia Britannica(百科事典)、Oxford English Dictionary(初出文献のある国語辞典)、Dictionary of National Biography(人名事典)等の大部な書籍にも必ず索引が付され、さらにThe Times Index(タイムズ紙索引)のように索引だけの書籍もある。知的資産を次代に継承しようとする意図の産物であろう。
The Times Indexの世話になったことは今も忘れられない。1977年から78年にかけて在外研究でイギリスに滞在した35年も前である。「近代アジアとイギリス」をテーマに、150余年にわたる歴史を調べていた。大学図書館の書庫内で、製本した重いタイムズ紙(1785年創刊、世界最古の日刊紙)を引きだしては大机にひろげ、関連記事を拾っていた。膨大な資料を前に途方にくれていたとき、この索引に出会う。小型本で初期は数年分が1冊、後に1年分=1冊になったと思う。もちろん電子情報ではなく、書籍である。
 この索引から、イギリス農村におけるアヘンチンキ(アヘンをアルコールに混ぜた飲み物。強心剤・鎮痛剤と信じられていた)の乱用を伝える1867年9月23日の記事、「アヘン無害説」を主張する1881年12月6日の奇妙な投書等を見つけた。イギリス植民地インド産のアヘンを盛んに中国へ輸出していた時代、イギリス国内ではアヘン飲用が野放しで、実に第一次世界大戦まで続く。
帰国後、『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980年 岩波新書)を刊行した。イギリスは中国から茶を輸入、その代金(銀塊)を取り戻すべく英領インドから中国へアヘンを輸出、最後にイギリス産業革命の産物・綿製品を広大なインド市場へ輸出する仕組みを作りあげる。断片的な知見だった貿易構造を、本書で「19世紀アジア三角貿易」と名づけ、体系的に解明した。
TLS紙のデータオンラインに話を戻そう。TLS紙の創刊は1902年、タイムズ本紙の創刊(1785年)から120年ほど後である。TLS紙の刊行と同時に、その索引づくりも進めていたと私は推測する。その蓄積をもとに、この電子化時代にあわせ、データオンラインを作ったのであろう。

 最終講義は大学教員にとって意義深いものである。長年にわたり取り組んできた教育・研究・学務等の総決算であり、ふだんの講義とは違う。文字通り最終の講義である。つい欲張り、過剰な話題を入れ込むのも人情であろう。

 最終講義は、教員の自由意志により授業外に開かれるため、期末試験が終わる2月から3月にかけて行われることが多い。私の最終講義は10年前の2002年、横浜市立大学で学長任期が終わる4月に設定した。アジア近代史を担当する教員としての講義と、4年間にわたる学長時代の総括を重ねたため、とても聞きづらかったに違いない。

 2月8日(水曜)、英文学科の窪田憲子教授による最終講義「ヴァージニア・ウルフの<革新>と<伝統>」があった。淡い色刷りのチラシが早くから配られていた。直前の会議が大幅にずれこんだため、残り時間は10分ほどしかない。後部の扉からそっと会場に入る。ちょうどウルフの日本への関心を語る終盤だった。

 知らない分野への予備知識を得るために、私もウィキペディア等を使う。匿名記事で出典がないため、誤解も混じるので注意しなければならないが、Virginia (Adeline) Woolf(1882年~1941年)はイギリスの女性小説家、評論家、書籍の出版元であり、20世紀モダニズム文学の主要作家の一人とされる。小説には、『船出』(1915年)、『ダロウェイ夫人』(1925年)、『灯台へ』(1927)、『波』(1931年)等がある。

 また「ウルフは英文学における重要な革新者のひとりとされ、実験的な手法を用い、特に意識の流れ手法で登場人物たちの心理を深く掘り下げ高い評価を得た」ともあり、最終講義の標題の<革新>はこの意味に違いないと見当をつけ、それに対応する<伝統>とは何かに私は関心の焦点を絞った。

ウィキペディアは、彼女の作家としての出発が1900年にタイムズ・リテラリー・サプルメント(タイムズ文芸付録)に載せたブロンテ一家の故郷ハワースについての記事であるとしているが、窪田さんのご教示により、これは誤解であり、正しくは19041221日の『ガーディアン』紙掲載と判明した。

 窪田さんの翻訳によるマイケル・ウィットワ―ス『時代のなかの作家たち2 ヴァージニア・ウルフ』(2011年 彩流社)を去年夏、頂戴しており、おおまかにウルフ像を描いてはいた。

ウィットワ―スは「文化研究的アプローチ」を用いて、「ヴァージニア・ウルフの生涯」に始まり、「社会のしくみ-国家とアイデンティティ」、「文学の状況」、「哲学の諸問題」、「社会、個人、選択」、「科学と医学のコンテクスト」、「ウルフを再コンテクスト化する」と展開する。いわゆる文学論とは違い、私の専門の歴史学(とくに文化史)にやや近い印象を受けた。

窪田さんがアーサー・ウェイリーの源氏物語の英訳(全6巻 1921年~33年刊)に言及された最後の部分には間に合い、私も聞くことができた。1000年も前に誕生した源氏物語を読んだときのウルフの驚きと、その作品に及ぼした影響には、私も強い関心がある。

 

 本学のカリキュラム改定委員会(プロジェクトC)が発足したのが2011年5月、早いもので9か月が経つ。高田理孝副学長(学生教育担当)を委員長とした強力な布陣で、本年1月に第13回会議を行った。
 本年夏までに新しいカリキュラムの基本方針を決め、それに沿って全開講科目(800余)の名称、担当者の配置、履修関連の手引き、シラバス等を完了し、再来年度(平成25年度)から実施する予定である。
 いま大きな焦点となっているのが1、2年生を中心とする教養科目を、いかなる理念と方針のもとに改定するかである。他大学の先行例から学ぶため、共通教育委員会(清水雅彦委員長)と教養教育運営委員会(田中夏子委員長)の肝いりで、寺崎昌男先生の講演企画が立てられた。
 寺崎昌男先生は1932(昭和7)年、福岡生まれ、80歳。立教大学教授から1980年に東京大学教授、同大教育学部長等を歴任、ご専門は大学史、1992年に立教学院本部に戻り、全学共通カリキュラム運営センター部長として教養教育の課題を実践された。いま立教学院本部調査役である。
 企画が実現し、2月8日(水曜)、寺崎昌男「学士課程教育における教養教育の課題」の講演会が大会議室で開かれた。先生の本学訪問は初めてだが、先輩にあたる大田堯元学長から「都留文」の名前は耳にタコができるほど聞いている、と言われた。講演依頼を快諾された理由の1つかもしれない。また本学に先生の薫陶を受けた教員が何人かいる。
 先生が立教へ戻られた1992年は、前年の大学審議会答申「大学教育の改善について」(いわゆる大学設置基準の「大綱化」)を受けて、多くの大学で一般教育担当の教員を専門課程へ移す動きが始まった時期である。「大綱化」は結果として一般教育=教養教育の軽視を生みだし、教養部(あるいは一般教育部)の解体につながった(東大教養学部を除く)。
 こうした大転換期に、先生は立教で全学共通カリキュラム運営センター部長として教養教育の改革を先導された。レジメは「Ⅰ 立教での経験と教訓」「Ⅱ 得た教訓」「Ⅲ 求められる普段の改善と論点解明」と附属資料4点である。
 ⅠとⅡでは、一般教育部の解体とその教員を各学部に分属させると同時に、全学共通カリキュラムを編成し、その運営センターに権限を集中させ、「総合B」に「スポーツとメディア」「仕事と人生」等の「主題科目」(「カンバン科目」とも言う)を創設、「哲学」「文学」といった方法論別の科目と区別したこと、また学生たちが自分たちの学ぶ場を知るため、大学論(「立教を語る」等)の「自校教育」を開始したこと等を中心に語られた。パイオニアとしてのご苦労は格別だったはずだが、その語り口は穏やかで優しい。
 私の元の職場(横浜市大)では、教養部が独立組織でなかったため組織解体はなく、カリキュラム改定が先行し、総合科目を多数開設した。その中で私は1985年から「横浜学事始」を担当、今年で27年になる。
 「授業科目」を英語で言うと?の質問を寺崎先生は示された。これはsubject(課題)であるとともにcourse(コース)であること、つまり個々の科目は孤立したものではなく、履修者(学生)の立場に立てば全体の履修の流れの中の1つ、すなわちsequence(連続する順序)を示すものでなければならない、と。
 過去20年間の経験と教訓を語ることが、そのままⅢ「不断の改善と論点解明」につながる。ここで示された幾つもの大切なヒントを参考に、各論は本学の特性にあわせ、本学教職員みずからの知恵と工夫で生みだすほかにない。

 

 3・11から11か月になろうとしている。東日本大震災について、本学でも幾つかの記録が生まれた。地域交流研究センター(センター長は杉本光司教授)が発行する冊子「地域交流センター通信」第20号(昨年末の発行)は、特集「地域・故郷を思う-東日本大震災と私たち-」を組んでいる。編集長は社会学科の畑潤教授、副編集長が社会学科の田中夏子教授である。

この特集に収録されている文章は、直接の被災体験と、被災者支援の経験の2種類に大別される。前者の筆者は本学学生3人と大平栄子教授(英文学科)の計4本である。

 大平さんは、大船渡港を見下ろす実家に帰る途中で被災、その「生きること、生かされること-私の被災体験」で言う。「小さな町は世界中のボランティアの人々でにぎやかになり、......遺体を求めて、瓦礫のなかを必死に探す家族と支援の人びと......アメリカやイギリスの兵士たちの姿、......日本在住のバングラディシュやメキシコ人が炊き出しをしてくれた」。末尾の段落では「(被災)当事者が語ること」について、マスメディアが期待する語りの「枠組み」と、各人が「適切に想像=語る」ことを対比している。

被災者支援の経験は、高田研教授(社会学科)が支援する学生グループの活動報告、編集部の「釜石での学生たちによるボランティア経験より」などで、抑制のきいた客観的な記録がかえって経験の蓄積とその意味の大きさをよく伝えている。

なお本学のホームページには社会学科環境コミュニティー専攻のブログがあり、継続的な活動経過を写真つきで掲載している。

 本学の学生は、東北地方出身者が約15パーセントを占める。3・11の直後から、学生課が総出で学生の安否確認を行ったことは、このブログの「学生のみなさんへ」(去年3月14日)や「学生の安否確認」(4月4日)に書いた。地震・津波発生の5日目から確認の取れた学生が一気に増え、6日目に429人(98.2%)、7日目に至って435人が把握できた。

残すは岩手県陸前高田市の男子学生と宮城県石巻市の女子学生となり、女子学生は11日目の3月22日に安否確認できた。男子学生は依然、消息不明のままで時間だけが経過、6月、DNA鑑定による死亡が大学に届けられた。

この死亡届から約半年が経った頃、ある会議の始まりを待つ間、比較文化学科の大森一輝教授が私に1冊の本を持ってきた。赤い厚手の表紙に『旅人 高橋洋基 追悼文集』とある。

 2~4ページにわたる幾編もの文章に、カラー写真が添えられ、全215ページ、奥付には2011年12月25日 非売品とある。大森さんが「私のゼミ生で、本学でただ一人、津波に巻き込まれて死亡......」と言う。反射的に私は「あの、陸前高田の?...」と返していた。装丁も大森さんの手になるという。その「優しくしなやかな強さ」という文の一部を引用して、紹介に代えたい。

 「高橋洋基君は、嫌味のない気配りが自然にできる人でした。自分を抑えるでもなく、誰よりも楽しみながら、他人の面倒もみてくれました。......あの優しさを忘れず、しなやかさに倣い、強さを胸に、みんなで、洋基が見るはずだった以上の世界を見て、その世界を、ほんの少しでも、どんな意味でも、より良いものにしよう。」