2012年1月アーカイブ

 1月28日(土)、残雪をわたる寒風のなか、地域交流研究センター主催の第8回フォーラム「大田堯先生とともに考える "生きる"こと、"学ぶ"こと、そして未来へ」が開かれた。センター長の杉本光司教授が開催の趣旨を述べ、「残念ですが今日は大田堯先生が来られません。ご自宅で怪我をされたので、ネット中継でご自宅と結びました」と加えた。この日の朝、富士河口湖あたりを震源とするやや強い地震があって心配したが、多数の熱心な参加者を集め、無事に終了することができた。
 最初に、昨年つくられた映画「かすかな光へ」(監督:森康之、音楽:林光、詩朗読:谷川俊太郎)が上映された。93歳の大田先生を主人公とする85分のドキュメンタリーである。
 その後、ネット中継のスクリーンに登場した先生はお元気な様子で、「この映画は自伝ではなく私の夢物語」と前置きし、「未来がどうなるか」ではなく、小さい行為を通じて「未来をどうするか」を導いてくれるのが「かすかな光へ」(谷川俊太郎の詩)であると述べ、「行動的楽天家」の面目躍如、自在に話を展開された。
 ついで佐藤隆教授(初等教育学科)司会による4人の懇話会「大田堯先生をお迎えして」に、先生はスクリーン上で参加された。
 大田堯(おおたたかし)先生は、1918(大正7)年、広島県生まれ。東京帝国大学文学部教育学科卒業、東京大学教育学部教授。専攻は教育史、教育哲学である。日本教育学会会長などを歴任、日本子どもを守る会(『子どものしあわせ』誌を刊行)名誉会長。
 先生は、1977(昭和52)年~1983(昭和58)年の6年間、都留文科大学の第7代学長(4年制となった1960年から)をつとめられた。今回は本部棟の学長室にお招きする予定でいた。正確にいえば、先生が学長として着任された1977年には1号館しかなく、先生のご尽力で本部棟が完成したのが1981年、退任までの2年間、執務された思い出深い場所である。
 最初のご著書は『地域社会と教育』(1949年、金子書房)。以来、『学力とは何か』(1969年、国土社)、『教育の探究』(1973年、東京大学出版会)、『子は天からの授かりもの』(1986年、太郎次郎社)、『地球環境と子ども』(1992年、岩波書店)、『教育とは何か』(1990年、岩波新書)、『生命のきずな』(1998年、偕成社)、『かすかな光へと歩む』(2011年、一ツ橋書房)など多数にのぼる。
 私のような教育学の素人には、晩年に情熱を燃やして語られるエッセーのほうが近づきやすい。その1つ「ヒトが人となる共育学」(2006年、農山漁村文化協会『食農教育-地域と子どもの個性を伸ばす』誌)の連載エッセーである。①「<遊び>を奪われた子どもたちに何が起きているか」では、<遊び>から生まれる「内発の喜び」「自治の力」「交わりの感性」の大切さを語る。②「現代の教師に求められるのは<演出家の手腕>」など刺激的な表現が出てくる。③「学力論をこえる<個性的な学び>」は学びの本質を示す。
 子どもにとっての遊びの重要性、遊びの場(生育環境)の保護、自然保護、の3つが交差するのがフィールドミュージアム(自然博物館)構想であろう。本センターが刊行する『地域交流センター通信』の1号(2003年)はこれを主題とし、16号(2009年)の「フィールドミュージアムと暮らし・教育の思想」は大田先生の特集でもある。

 

 去年の11月10日(木曜)と11日の両日、公立大学協会の学長・事務局長会議が大阪で開かれ、初日はシンポジウム「震災復興とこれからの大学教育の姿」が行われた。その特別講演が山折哲雄(宗教学者・元国際日本文化研究センター所長)による「絆~いま、生きるあなたへ~」である。つづいて「震災復興支援学生ボランティア活動報告」(5つの大学の学生による)と「パネルディスカッション<震災復興とこれからの大学教育の姿>」(7公立大学の学長・副学長ほか)が行われた。

 特別講演に山折さんを提案したのは実は私である。公立大学協会の佐々木雄太副会長(愛知県立大学長)から相談を受けた。公立大学協会の会長と3名の副会長は、それぞれ大学長として多忙なうえに、会員校81を束ねる重責を担っている。すこしでも役に立てればと思った。

 山折さんとは、この数年間お会いしていないのに、快く引き受けてくださった。初対面が20年前との私のおぼろげな記憶に対して、山折さんは20数年前ときっぱり言われる。後で調べると、上山春平監修『日本文明史』(角川書店 全7巻)の最初の打合せ会でお目にかかったのが25年前である。この縁で山折さんから国際日本研究センター(京都市)の研究会に誘われた。上記のシリーズは、山折哲雄『日本文明の創造 みやびの深層』(第4巻 1990年)、加藤祐三『新しい旅立ち 地球文明の場へ』(第7巻 1992年)に結実する。

 講演で山折さんは、3人の日本人に言及しつつ論を展開した。詩人・農学者の宮澤賢治(山折さんは岩手県花巻市生まれ、賢治の生家に近い)、和辻哲郎『風土』(昭和4~5年刊)、寺田虎彦『日本人の自然観』(昭和10年刊)である。

その内容を一言で言うのは難しい。私なりに結論だけをまとめれば、寺田の著書が出た昭和10(1935)年を最後に、日本人の学問は文系と理系に分断され、精密化し、同時に矮小化した。そして「予測可能な学問」に集中し、「予測不能な学問」(ここに地震学、宗教学、歴史学等を入れる)を軽視して現代に至る。いま「予測不能な学問」を再興する時ではないか、と。

 別れぎわに山折さんが、突然、「新保先生はお元気ですか」と言われた。不意の質問に「......はあ~。在外研究先のイタリアで半年ほど英気を養われたようで、ますますお元気......」と答えたように思う。新保祐司教授(国文学科)に伝えると、「えぇ......」とこちらも妙な返事だった。

年が明けて1月、新保さんが1冊のムックを手に、「山折さんとの対談が載っています」と言う。別冊『環』誌(藤原書店)18号、生誕150年を記念する特集『内村鑑三 1861~1930』(2011年)である。3部構成で全359ページ。第Ⅰ部は「内村と近代日本」に関する論考で、「日本の近代を根源から批判し、逆説的に近代日本人の精神的支柱となった巨人の全貌」を明かすとあり、この冒頭が山折・新保対談である。つづいて両氏の論考を含め計12本の論考が並ぶ。第Ⅱ部は「内村鑑三を語る」と題し、主に明治期の論客による内村論の再録、第Ⅲ部は「内村鑑三を読む」で、内村作品の抄録である。

この企画・全体構成・筆者選定までかかわった新保さんは、21年前、『内村鑑三』(1990年、構想社)を著しており、今回は思い入れもひとしおであろう。

 岡野薫子作品展が本学図書館で開かれている。1月29日(日曜)までなので、早めに足を運んでいただきたい。図書類はよそでも読めるが、未刊の日記や絵はこの展示でしか見られない。展示と並んで、1月18日、初等教育学科主催の講演会(司会は藤本恵准教授)、岡野薫子「子ども時代は今につづいて」が1号館303教室で開かれた。

この日は朝から文部科学省の教職課程認定大学実地視察があり、福田誠治副学長ら教員9名と椎廣行事務局長、久保田浩教職担当らが応対、私も午前の説明・質疑及び夕方の講評に参加した。午後の図書館視察では、教科書及び指導要領の充実ぶり等に高評を得た。また岡野作品は小学校の教科書に採用されていることもあり、偶然ながらタイムリーな展示であった。

視察が終わり、次の大学院研究科委員会までのわずかな隙間をぬって、私は4時半から始まった岡野さんの講演を聴き、お礼を言うことができた。童話作家、科学映画シナリオライター、画家と、多彩な活動をしてこられ、いまも創作意欲満々である。演題が示す通り、子ども時代の体験は82歳の今につづいている、と学生たちに話しかける。

「ひとりっ子のせいもあって、子どものころから、私は人一倍、動物が好きだった。友だちといっしょに縁日にいっては、アヒルのひなやコマネズミなどを買ってきて、母にしかられたこともたびたびあった。」(短編集『砂時計』1970年初版所収の「春の陽うらら」より、ふりがな省略)

「......小学校を卒業するころになると、こんどは、だんだん、小さな生きものがたまらなくかわいく思われるようになってきた。コマネズミや小鳥よりも、もっともっと小さな動物たち―、ちょろちょろすばしこいトカゲやカナヘビや、それから、ぬれたからだを光らせて、ちょこなんとヤツデの葉のうえにすわっている小さなアオガエルなどに、心をうばわれるようになった。」(同上)

これは東京下町の、ごくありふれた風景である。私の育った東京の練馬にも、トカゲ、アオガエル、それにモグラ、ヤモリ、チョウ、トンボなど小動物や昆虫はいつもいた。『銀色ラッコのなみだ(私家版)』(1984年)所収の自選略年譜(と著作目録)を読めば、岡野さんの生きた時代背景や生活環境の一端を知ることができるだろう。

「萩の花の振袖」(短編集『砂時計』所収)は、「終戦の日、私たちは、御殿場のお寺の庭さきで、朝からタコツボを掘っていました」で始まる。子ども時代を語るのどかなトーンから一変して、戦時下の少女時代(16歳)の体験を題材とした唯一の作品。このタコツボとは防空壕を指す。「東京は、空襲で、あらかた焼けてしまい、私たち三十四人の女子学生は、学校ぐるみの疎開で......毎日、農家の畑仕事を手つだったり、山へ開墾の勤労奉仕にいったり......東京からずっとついてきてくださった浅野せい先生という家政の先生が、みなを統率していました。」

 この小品は挿絵を入れて19ページ、物語の展開に最後まで息を抜けない。